河野通勢ギャラリー − 河野通勢(こうのみちせい)− 大正から昭和戦前期の画家

河野次郎(こうの じろう)年譜

1856(安政3)年 11月11日、次郎は足利藩戸田氏家臣杉本奥太郎安志御中 姓席の三男として江戸・神田小川町の足利藩神田上屋敷にて、母多希(タケ)のもとに生まれる。

1868(慶応4)年 官軍の江戸城入城に伴い、藩命により足利に帰藩する。同時に足利学校へ入る。

1868(明治元)年 田崎早雲に南画を学ぶ。

1874(明治7)年 次郎18歳、上京し、高橋由一に洋画を学ぶ。その頃、信濃高遠藩士下級武士であった父の子伊沢修二は維新政府の教育部門の要職にあり、江戸にいた時、日本で初めての洋画家と認められていた高橋由一と親しくしておられた。 そのとき高橋由一は伊沢修二に門下生で足利藩の河野次郎について優れた才能の持ち主であると語って下さっていた。

1876(明治9)年 20歳の次郎は足利県下等小学校の教師となる。5月に河野権平家へ入籍する。当時、日本教育界の要人伊沢修二は政府の要請で愛知県第一師範学校の校長に任命された。伊沢修二先生が江戸におられた時、日本で初めての洋画家と認められていた高橋由一と親しくされておられました。高橋由一はこの時、門下生で足利藩の河野次郎について、この人は非常に才能のある人であると話しておられました。伊沢先生への政府の要請は、明治維新という新しい時代の日本の小学校・中学校の画学教育を如何にすべきか、ということでした。このとき伊沢先生が思い当たったのが河野次郎でした。そこで、すぐに次郎に手紙を出され、愛知県第一師範学校で働いてほしい旨を打診されるのでした。 次郎は名古屋へ行くことを決心しました。そして愛知県第一師範学校および愛知県第一中学校を兼務した画学教員に採用されたのでした。 伊沢先生は次郎に新しい日本の小学校・中学校画学教科書の作成を託されたのでした。次郎は生徒の前で教室で、遠近法などの画学技術を使って距離的な遠近感をもった絵を構図して見せたり、絵の具のいろいろの色を合わせて、微妙な所望の色を作ったりして立体感を持った絵を、生徒の前で描いて見せるのでした。

1877(明治10)年 8月、次郎の手によって銅版画挿図入りの洋画教科書「画楽階梯」三巻ができあがりました。この頃すでに次郎はあらゆる所から関係する技術資料を取り寄せ、持ち前の技術的直感を頼りに、銅版画・石版画の技術を身につけていました。

1880(明治13)年 次郎は小学生・中学生対象の鉛筆画・水彩画を教える洋画塾を開いていました。その時の銅版画や石版画が使われた「入学規則」が残されています。

1882(明治15)年 伊沢先生は長野県師範学校松本支校の校長に移られたので、次郎も同校の「三等助教諭」として招かれ、伊沢校長の御指示を受けて勤務するのでした。従って住居は松本に移る。名古屋から松本へ行く旅は、次郎と婚約していた娘も一緒であったため、本当に想像を絶する過酷な旅であったと聞いています。

1883(明治16)年 名古屋から連れてきた娘・古橋マスと結婚する。

1884(明治17)年 7月、次郎は遠近法を駆使した構図の書き方、いろいろの絵の具を混ぜて微妙な色を作り出す色彩論の説明などが取り入れられた絵を、鉛筆画であれ水彩画であれ絵の描き方を生徒の前で描いて見せ、それらを集大成して、「小学中等科画帖」が出来たので、それを学校に提出するのでした。また、自宅で子供たちを集めて、絵画塾もしました。次郎はこの塾で近所の子供に図画の描き方を教えたり、注文があれば油彩で肖像画を描いたりしました。学校が休みのときは、美しい近くの景色を写生しに行くのでした。

1885(明治18)年 長野県師範学校を会場にして開かれた夏期講習会で、次郎がどのような話をしたかに就いては資料がなくて、わかりませんが、たぶん絵を描く楽しさについて語ったに違いありません。この時聴講にきていた中村不折に、鉛筆画と水彩画を教えました。また不折に上京することを勧め、小山正太郎への紹介の労をとりました。次郎も上京について何か考えたかもしれませんが、これを考えると涙が止まりませんでした。親友の田崎早雲の一人息子格太郎が彰義隊に加わり、敗れ、妻と自決してしまったことを思い出すからでしょうか。 このころ、伊沢先生は長野県尋常師範学校の校長に就任され、次郎も教師に迎え入れられるのでした。

1888(明治21)年 このころ、長野市にハリストス正教会復活会堂が、次郎の家のすぐ近くに建設されました。次郎は兼ねてから欧米文化に大変興味を示し、有名な欧米人の画家の本を丸善を通じて購入したりしていた。このため教会の司祭様と大変に親しくさせて頂いた。そしていち早く、洗礼を受けたい旨を申し上げた。次郎は母(タケ)も妻(マス)も三人一緒に洗礼をお受けしたい旨司祭様に申し上げました。ところが次郎が足利を出て名古屋へ来た時は明治9年だったので、それからもう12年も経っていました。ところが母は群馬県の伊勢崎に住む6歳下の弟飯塚悦蔵の元で元気に暮らしていると聞いていました。次郎は無性に母に会いたくなりました。しかし、国鉄長野駅は出来たばかり、高崎駅も出来たばかりで、線路はところどころ出来ていました。次郎はなんとしても母を長野に連れてきたくなりました。次郎は32歳、体力にはまだまだ自信はありました。しかしどうやって碓氷峠を越えて高崎へ出たらいいのか、中山道に従っていけばいい、そのぐらいしか知恵はありませんでした。母を連れて伊勢崎から長野まで帰って来なければならない。ともかく次郎は日の長い頃、学校の休みのときを狙ってそれを決行したのでした。多分夏の初め、長野を出て伊勢崎にいる母に会い、母を連れて、再び碓氷峠を越えて、長野に帰ってきたのでした。ともかく驚くべきことには、本当に次郎は母を明治21年中に伊勢崎から長野へ無事に連れ帰ってきたことでした。そして「無声閣」と名づけた写真館に、母を迎えたのでした。そして教会へ母と一緒に行き、司祭様に母を紹介するのでした。また、司祭様へ母と次郎と妻マスの三人に洗礼を受けさせて頂きたい旨申し上げたのでした。

1889(明治22)年 大日本帝国憲法発布記念日があった年の復活祭の日に、次郎と次郎の母多希(タケ)と次郎の妻(マス)の3人が司祭様司式のもとで洗礼を受けたのでした。そして次郎はアレキセイ、母はルキヤ、妻はエリザベタの洗礼名を頂いたのでした。そして3人はたのしい忠実な信仰生活を守るのでした。ところが次郎にはどうしても解決したい問題がありました。それは妻に子が与えられない事でした。この事も司祭様に相談したのでした。司祭様は次郎に、信頼できる家庭から子を貰い受けるか、代理母に産んでいただくかですと、申されたのです。次郎は後のほうを望みました。その後教会員の中に適当な方が見つかりました。

1895(明治28)年 その方は「ふく」さんという方でした。次郎はそのかたによって元気な男の子が与えられました。次郎の喜びは本当に大変なものでした。天にも上るような、と言うのでしょうか。次郎はその子の名を通勢(つうせい)と呼ぼうとしましたところ、司祭様はロシア人でしたので(ツウセイ)の発音はよくできないと言われ、次郎は、では(ミチセイ)はどうでしょうかとお尋ねしますと、その方がいいですと言われたのでそうなったとのことでした。ところが妻は自分が子を生んだ事がありませんので、乳離れした子をどうして育てたらいいのか、全く分かりませんでした。次郎はそこで考えました。そうだ次郎より六つ年下の伊勢崎に住む弟の飯塚悦蔵に手紙を書いて頼んでみよう。悦蔵は子沢山の家庭で、次々子供が与えられました。次郎は事情を弟の悦蔵に手紙にしたためて頼むのでした。悦蔵は快く協力する旨伝えてきました。次郎はすぐ、実行する人でした。 私(恒人)は確か12歳ぐらいであった頃、一人、祖母(マス)に呼ばれて前に呼ばれ、座らされました。私は、祖母が、これから大切なことをいいますから、しっかり覚えるのですよといわれました。私はその時の祖母の真剣な雰囲気を忘れることは出来ませんでした。私は祖母に、なんのことでしょうかと言いますと、祖母はお父様のことですと、言われました。そしてたしか、「私には子が生まれませんでした。ですから、ふくさんという方に赤ちゃんを産んで頂きました。うちに黒い衣こうがあるでしょう。あれは、ふくさんから頂いたものです。」と言われました。兄弟はみな学校にいっていて話しにくかったのかも知れません。祖母も死に、兄弟もみな大人になった頃、祖母から聞いたことを文章にして兄弟全員に手紙を書いて送りました。しかしだれもおなじことを聞いたようすは、ありませんでした。 話を前に戻しますが、次郎は妻と生まれたばかりの赤子と代理母をつれて碓氷峠を徒歩でこえて、女性には無理な難所のところは馬や駕籠を使って、碓氷峠をこえて、当時は何日かかったことでしょう、弟の飯塚悦蔵に託して、そして、長野まで帰ってきたのでした。妻と生まれたばかりの子(ミチセイ)は子供の多い悦蔵の家庭で皆にかわいがられて育てられ、あっという間に5年という歳月が流れていたのでした。次郎は、長野では次郎の所のほかにきれいな写真を取って貰える所はありませんでしたから,次から次へとお客が来て、大変でした。今度は次郎は妻を迎えに伊勢崎までいかなくてもよいと計算していました。それは旅の道中鉄道工事の進捗ぶりを見ていたので、いつごろ長野高崎間の工事は完成されるか予測していたに違いありません。ある日突然赤子を抱いた妻が、初めて開通した汽車に乗って伊勢崎から長野まで帰ってきたのでした。次郎の予測通りでした。新しい日本の明治の時代が始まったのでした。 ところで伊沢先生は、政府からの要請で、新しい日本の音楽教育の研究のため、米国へ旅立たれたのでした。

1910(明治43)年 次郎は教会の聖画を書きたくてたまりませんでしたので『聖ミカエル』を描き、教会へ献上したのでした。しかし教会の聖画は教会の本部で正式に認められた人しか描けませんでした。ですから聖画には画家のサインも日づけもありません。ニコライ神父様が特別に認めてくださったのかも知れません。私が覚えておりますものでも、ゲッセマネのいつもの祈りの場所で、明日の十字架を覚え祈られるハリストス(キリスト)さまの血の汗を流して祈られておられる後ろに天使が寄り添っている有様を描いた聖画を覚えております。

1917(大正6)年 11月、ロシア革命が勃発し、ロシア政府からの支援の送金は一切こなくなってしまいました。しかし次郎やその家族の信仰には何の影響も見られませんでした。

1928(昭和3)年 通勢とともに小金井に転居する。私は3歳でしたから隠居部屋での次郎をいつも見ていましたから知っております。たんすの上に置かれたハリストス様のイコンの前で起立の姿勢で1時間かそれ以上立った姿で毎日祈祷を続けられておられました。それから近くの武蔵野の景色を求めて写生をしていました。

1934(昭和9)年 4月18日朝、いつもの寝ている姿で死んでいました。78歳でした。遺体は緑の布で覆われた棺に納められ多摩墓地の地下深く埋葬され、盛り土の上に20センチ角のりっぱな白木の十字架が立てられました。それには「河野次郎の墓」とかかれてありました。