河野通勢ギャラリー − 河野通勢(こうのみちせい)− 大正から昭和戦前期の画家

父・通勢の呼び名

父・通勢の呼び名について、父の没後、最近の父の展覧会などでの父の呼び名は、" みちせい" と記載されている場合が多く、
私たち家族の者にとって、一寸違和感を感じております。何故かと申しますと、私達は、家庭での日常会話のなかで、
父が自分のことを、" みちせい" と言っているのを聞いた憶えがありませんでした。
電話でも父はいつも、受話器を取って、「"つうせい"です」といって話をしていました。
今回の父の展覧会を通して、企画実現に当たってくださったスタッフの方々の大変な御努力で、通勢の真相がいろいろ明らかになって来ました。

又図録の「河野通勢− 長野の青春時代」の中で、長野県信濃美術館の学芸員の木内真由美様がお調べいただいた
ハリストス正教会の記録によりますと、9 歳のときの洗礼名に、「ペートル・アレクセヴィチ・ミチセイ・コーノ」 という記載があります。
従いまして、幼少の時代には祖父・次郎は父を「みちせい」と呼んだに相違ありません。
敢えて 河野家の一員として気付いたことを申しますと、河野家には古くから"通信"(みちのぶ) とか、" 通有"( みちあり) といったように、
名前の冒頭に"通"の字を付け、" みち〜 "と名付ける伝統がありました。
祖父・次郎も父に"通勢"(みちせい) と古式にのっとって命名したに違いありません。
自分の名前の呼び名を「みちせい」から「つうせい」へと敢えて変えたとすれば、何か要因があったのではないでしょうか。
要因と思われる二つの出来事が思い当たります。
第1の要因
今回の展覧会の図録の中の通勢の年譜の記載をみますと、「大正3 年10 月第一回二科展に3 点出品し、初入選した」とあります。
また、「大正4 年11 月通勢がはじめて岸田劉生と会う」との記載があり、また、「大正5 年第三回草土社展に劉生の勧めにより、
素描数点を出品した」とあります。父も大正3 年頃から昭和の始めにかけて、権威ある展覧会に出品し、入選する回数が多くなり、
それがきっかけで、美術関係は勿論、作家、新聞社関係に知人・友人がひろがり、これらの人々と対応する機会が急におおくなりました。
したがって、自分の名前を「みちせい」と呼んでくれている古い人たちとの付き合いがへり、新しく知った人は、
つい通勢を読みやすい読み方で「つうせい」と呼んでしまう人の方が圧倒的に多くなっていった、と思われます。
また、父も、「つうせい」と言われる度に、いや「みちせい」ですと訂正するのがおっくうになって行って、
自分自身も 「つうせい」と呼ぶことに納得していったのではないか、と思われます。
第2 の要因
父は、上述しましたように大正3 年頃から上京する機会が急に増え、今回の河野通勢展の図録の中の通勢の年譜の記載によれば、
父はこの頃上京した際には、「東京赤坂区隠田(おんでん) の土屋増治郎の家を宿としていた」とあります。
この土屋増治郎は、上京する前は、長野市のカナダからの宣教師ノルマン先生の館に宿泊して教会のお手伝いをしたり、
英語を教えて頂いたりしていました。
ノルマン先生の館は、父の家「河野写真場」のすぐ近くにあり、父もノルマン先生の教会へはよく行っていました。
このため、増治郎と父はとても親しくしていました。この頃、増治郎は野村定吉(国鉄技師長)の長女・妙子と結婚して上京し、
東京赤坂区隠田の地に新居を構えておりました。妙子の実家野村定吉の家は本郷にあり、妙子の兄弟たちはここにおり、
下の二人の姉妹・光子と好子とは姉の隠田の家によく遊びに来ていたようです。
このため、時々上京して隠田の家に来て泊まっている通勢とは、たびたび会う機会があったようです。
通勢は丁度その頃、自画像や人物画像の作成にのめりこんでいたときだけに、若くて綺麗な姉妹たちの愉しそうな
しぐさは絶好の画題となったのではなかったかと思われます。
通勢は純真で可愛い彼女たちにすっかり虜になってしまいました。
そして通勢は特に好子に惹かれていったようです。
そして姉達の前で、妹の好子のデッサンを何枚も描きのこしています。
こんな時にも、姉の光子はさらっとした性格でしたので、特に気にかけず見ていたに違いありません。
通勢は好子のデッサンを長野に持ち帰って、長野で好子の肖像画を女性の最高の地位「モナリザ」にまで高めて描いていました。
父の好子にたいする想いはつのるばかりでした。終に、父はその想いを義兄・増治郎に思い切って打ち明けました。

ところが、増治郎の回答は全く思いもかけない冷たいものでした。増治郎は父に姉の光子との結婚を強く勧めたのでした。
その理由は、妹が姉を差し置いて結婚するのは、古い風習が強く残っているこの辺りでは勧められないと言った理由であったと推測されます。
キリスト教徒の父としては、聖書でイサクの子ヤコブは父イサクが住んでいたカナンの地の女の人を嫁に迎えるのはよくないとして、
父の親族がいる遠い国ハランへヤコブを旅立たせました。ヤコブはハランの地でイサクの親族と会うことが出来、
神様のみちびきで心に適う娘ラケルと出会ったのでした。そしてその娘を嫁に迎えるため7 年間も一生懸命働きました。
約束の7 年の時がきたのでヤコブはラケルの父ラバンに、ラケルを私のお嫁に下さいと申し出ました所、許されました。
喜んだヤコブはラケルを連れて父イサクのもとへ帰ろうとして、ヤコブはラケルと一緒に寝て朝起きてみると、
それはラケルではなく姉のレアでした。
ヤコブはラケルの父ラバンに抗議しました。でもラバンの答えはこうでした。
「妹を姉よりも先に嫁がせる事はこの国ではしません。」と言うのでした。
「もしもどうしてもラケルがほしいのであればさらに7 年働きなさい。」とラバンに言われ、ヤコブはさらに7 年働きました。
そしてヤコブはラケルとレアをつれてカナンの国に帰っていきました。

父通勢はこの物語を思い出したに違いありません。父には到底承服できる理由ではありませんでしたので、
父は好子との結婚を認めてもらえるよう増治郎に強く迫りました。けれども、認めてもらえませんでした。
この辺の微妙ないきさつについては謎のまま葬り去られてしまいました。
通勢は、どれ程自らの内の心の願いと、この冷たい現実との葛藤に苦しんだ事でしょう。
このあまりにも過酷な悲哀の苦悩は、それまでの過去への決別、また「みちせい」の時代との決別、でもあったのではなかったか、と推測されます。 あの河柳の巨木から来る霊感の声が聞こえなくなってしまったのでしょうか。
この時を境に、父の人生観にも芸術観にも、おおきな断層が起こったようです。
でも、父は新しい未来を見つめて「つうせい」の名のもとに、舞い込んでくる沢山の仕事に、全力で没頭するのでした。
しかし、父は油彩の絵での自分の名のサインでは一貫して、M. Kouno あるいは M. Kono と記載しています。
そして父は、神のみ前に、好子の姉・光子と結婚することが神のみ旨と信じて、1917 年(大正6 年)11 月に光子と結婚したのでした。
そして上京して、東京雑司が谷に居を構えました。
(2008 年4 月12 日記)