河野通勢ギャラリー − 河野通勢(こうのみちせい)− 大正から昭和戦前期の画家

通勢の義父・野村定吉について

私(恒人)の幼い時の思い出に、母(光子)の話として『幼い頃に福知山に住んでいたことがある』という事を聞かされていました。
母は福知山での愉しかった思い出を断片的によく聞かしてくれました。
福知山女学校へ通っていたことがあること、野山でお友達とおしゃべりしたり、歌を歌ったりして愉しかった事など、
本当に懐かしそうに話してくれました。また足袋を履いて外に出てしばらくして戻っても、足袋の底がほとん ど汚れない。
東京では黒土(富士火山灰から出来た関東ロ-ム層の黒土)のためにすぐに汚れてしまうから、などと申しておりました。
幼い頃に聞いた事ってどうしてこんなにはっきり何時までも忘れないのでしょうか。

母の女学校時代の親しくさせて頂いたお友達に、片山しょうという方が居られ、私たちも生涯親しくさせていただきました。
昭和39 年(1964 年)、私は仕事の関係で関西の会社に勤務する事となりました。
母は何時か関西に行ってみたいと言っていたのですが、私が関西へ来る前の年、昭和38 年に残念なことに他界してしまいました。
私は母の願いでもあったので、母が親しくさせていただいていたお友達の片山さんに会いたいと思いました。
京都にお住まいの片山さんの親戚の方にお尋ねしましたら、片山さんがお元気にすごして居られることが分かりました。
そこで、山陰本線夜久野にお住まいの片山さんをお訪ねしたのでした。
片山さんは本当にお元気でした。お会いできた事を本当に喜んで下さいました。いろいろ母の思い出話をして下さり、
「福知山をご案内しましょう。」と申されて、早速私たちを福知山へ連れて行って下さいました。

母が明治の時代に通っておりました福知山女学校を案内してくださいました。
又母は女学校へ入学するときとても優秀で、「1年飛び級されたのよ。」ともいわれました。
その時の、小走りで電車に乗ったり降りたりされていたご様子を忘れる事が出来ません。
その後は、片山さんをお訪ねする機会がしばらくありませんでした。
しかし、次にお会いできたときには、以前のようなあの元気さではありませんでした。
そしてその時、大切にしまっておかれた父・通勢の絵を出してこられ、「これはあなたのお父様から頂いたものです。
でも、あなたが持っていてください。」と申されて、色紙など五、六枚の父の絵を返してくださいました。
幼い頃の母との話では、母の家族がなぜ福知山へ行かなければならなかったのか、
又、 母の父が福知山でどんな仕事をしていたのかといったことについては一度も聞いたことがありませんでした。

ところで、母の父・野村定吉は、当時国鉄本社に勤務する技師でした。
定吉は、東北本線の工事が1891 年に完成しましたので、次の目標の山陰本線の完成の使命を受けていました。
東北本線の工事のときは、各地を移動して行かなければならなかったため、単身赴任を余儀なくされたようでしたが、
今度の山陰本線の場合は、工事の場所も、余部鉄橋の近くに集中されておりましたため、家族も連れて福知山に転居することとなりました。
母(光子)の母、定吉の妻・ハマは、まだ幼い妙子・光子・好子と男の兄弟たちを連れて、東京から遠くはなれた、
だれも知る人のいない福知山の国鉄官舎に突然に移り住むことになりました。
夫の定吉は厳しい人でしたから、妻ハマに「だれからも決して、届け物は受け取ってはいけない。」と厳しくいいつけていたと聞いています。
又自分の仕事などの事についても家族には、なにも語らなかったようです。
でも、このあたりに伝わるいろいろ珍しい面白い昔話、山奥の大江山には、酒呑童子が住んでいたとか、
奥山には八つの頭のある恐ろしい八岐大蛇が棲んでいたとか、子供達は怖さや興味深さに、父親の話に大喜びをしたに違いありません。
このとき、山陰本線の工事は東と西から工事が進められ、「余部鉄橋」は最後の工事として残されていました。
そして終に、余部鉄橋は1909 年(明治42年)12 月に着工され、1912 年(明治45 年)3 月1 日に、
長さ310.59m,高さは高いところで41.45m の11基の鋼鉄の橋脚によって支えられたトレッスル式「余部鉄橋」が完成されたのでした。
余部鉄橋は、東側の断崖を大谷トンネルが貫通され、このトンネルに連結して地上41mの余部鉄橋に連通されております。
列車がこの大谷トンネルを出ると眼下に余部漁港の集落が小さく点在しているのが見え、遠くに日本海の水平線を望むことが出来、
鉄橋の前と後にそれぞれ、そそり立つ山陰の険しくも美しい断崖の下には日本海の荒波が海岸線をふちどってくだけている、
その見事な絶景をみた当時の人たちは、近代技術の素晴らしさに、どれほど目を見張ったことでしょう。
私たち(通勢・光子の子供の中の三人のきょうだい)恒人・鏡子・彩子は祖父の偉業を観ようと、
平成18 年5 月に旅を計画し、この余部鉄橋について調べ現地に臨みました。
私はかつて早稲田大学で土木工学を学んだ者といたしまして、その規模と出来栄えに感動したのでした。
この余部鉄橋はとりわけ厳しい環境(山陰の冬の極寒、夏季の猛暑、山間を吹き抜ける猛烈な風など)にさらされながら、
今日まで100 年にわたって、国の鉄道運輸の重大な使命を立派に果たして来たのでした。
この余部鉄橋建設には、巨費と延べ25 万人を超える人員が投入され、当時の最高水準の技術を駆使してみごとに完成させたのでした。
このときの国鉄技術者たちの中に、母の父・野村定吉がいたのでした。
野村定吉はその後、国鉄技師長を拝命いたしました。
この偉大なる成果を果して、野村定吉一家はだれにも知られず懐かしい福知山を去って、無事東京に戻ったのでした。
ところで、野村定吉の長女・妙子は土屋増治郎と結婚して、東京赤坂区隠田(現在・渋谷区神宮前)に居を構えたのでした。
二人が出会って結婚に導かれた詳しいいきさつについては今となっては、訊ねるすべを知りません。
その頃父通勢はどうしていたかと申しますと、主に長野で裾花川の風景の作品や自画像を描くことに没頭していたようでした。
なかでも1917 年(大正6 年)、第11 回文展に出品した自画像が特選候補に選ばれ、一躍洋画界で認められ、上京する機会が急に増えたのでした。
ところが上京しても泊まるところもなく、気軽に泊まれるところを探していました。
ところが、長野で宣教師ノルマン先生の教会に泊り込み教会のお手伝いをしたり、ノルマン先生に英語を教えて頂いたりしていて、
長野で父と親しくしていたあの土屋増治郎が結婚して隠田にいることが分かり、増治郎を訪ねたのでした。
増治郎とその新妻妙子とは快く父を泊めてくれました。
父は、すっかりその好意に気を良くして泊めてもらいました。当時隠田のこの辺りには雑木林や野原がまだ多く残されていましたので、
父は機会があればスケッチブックを抱えて写生にでかけていたようでした。
隠田近くの草原で写生をしていた時、写生をする通勢を岸田劉生が見かけ、いきなり声を掛けられたようです。
話も弾んで、とうとう劉生のアトリエに招かれたのでした。そこには「切り通し」のあの絵がイーゼルに掛けてあったそうです。
それから肝胆相照らして語り合い、美への共感に感動しあったのでしようか、
それを機会に劉生が運営する「草土社」の同人に迎え入れられたのでした。
こんなわけで、父は再三上京する機会がふえ、増治郎宅を訪れる機会もまた増えました。
ところが、妙子の実家(野村定吉の家)が本郷区上富士前にありましたので、
実家から増治郎の家に妹の光子や好子のきょうだいまでもが良く遊びに来ていたようです。
父はそれまで裾花川の辺りの神秘に満ちたモチーフにのめりこんでいましたが、
いきなり美しくて可愛らしい姉妹たちのモチーフに囲まれた通勢は、この新しいモチーフにすっかり肝を奪われてしまったようでした。