河野通勢ギャラリー − 河野通勢(こうのみちせい)− 大正から昭和戦前期の画家

「キリスト生誕礼拝の図」について

この作品を父が手がけた時は、正確には分かりませんが、図録の"河野通勢年譜"からしますと、
1917 年(大正6 年)の9 月10~30 日までが、第4 回二科展の開催日ですので、それに応募する7 月ごろとなります。
この年譜をさらに見てみますと、10 月16日~12 月11 日には第11 回文展があったと書かれています。
通勢にとっては、この時の文展は非常に大切に考えておりましたものですから、
ずっと前から準備し、手直しすべき所へは何度も検討を加えるといった入念さでした。
従ってこの文展応募作品は早くから、多分春頃には略完成されていたのではないかと考えられます。

ところが、二科展の作品については、全く手がつけられていませんでした。
でも作品の構想だけは、応募の期日に向けて固めておかなければならないと心に留めていました。

ところでこの頃、父・次郎と通勢の間には確執が生じていました。次郎は長野市に写真館を開業して二十年にもなり、
次郎の写真技術は、彼の美的に洗練されたセンスで磨きがかけられ、長野で最高の写真技術でもって確固たる
写真作品を提供できる地位にありました。
従ってその経済的効果は大きく、全く安定した収入が保障されていました。
父・次郎としては、息子通勢にこの仕事を継がせない手はない。
次郎の何十年という体験から、絵を買ってくれるなどという篤志な人などいない、 との厳しい実状から、
次郎は通勢に写真をやってみてはどうか、と迫ったのでした。

ところが、次郎の声は全く聞いて貰えませんでした。その頃から通勢の作品は、二科展の第1 回展では3 点、
第二回展では1 点入選しておりました。
また、その頃美術界で新進気鋭の画家としてもてはやされている岸田劉生に認められ、
劉生が運営する展覧会"草土社"の同人にも推薦され、作品の出品も認めていただけるというような、
願ってもない幸運に恵まれていました。こんな関係で、急に上京する機会が増えて来ました。
そして通勢は第4 回二科展に応募すべく、あわただしく東京へ向かいました。
そして背水の陣を敷く覚悟で、全人生をかけた作品を構想しながら車中の人となっていました。

でも、耳の中には、さきに父・次郎に言われた言葉が何度も響きました。けれども何か大きな音がして、何かが落ちていったような気がしました。
あの長野の美しい山々の記憶、裾花川のあの古い河柳の数々の巨木などの記憶が、ふっ切れて落ちて行くような気がしました。
二科展の応募作品の制作に私の全てをかけよう!
通勢は今度の二科展には絶対的な自信で臨んでいました。過去の2 度の二科展での出品ではいつも入選していましたし、
今度は又新たな自信も湧いてきました。
東京に来て泊めてもらえるのは、長野で親しくしていた土屋増治郎しかいませんでした。
今までも何度か泊めてもらっているし、今度の二科展へも是非応募したいと、増治郎に全てを訴えて、
二科展の応募作品を完成するまでおいて欲しいと頼みました所、事情を汲んでくれて、泊めてもらえることになったのでした。
条件として、食事の世話は一切無用に願いたい。(これは内心只ならない覚悟でした。
これは部屋を使わして貰えるだけでも有難いのに、それ以上に厚かましくは出来ない、期間も1 週間はかかるまいと見ていました。)
これまでも何度か来て使わしてもらっていたので勝手はかなり分かっていました。

早速、翌日からキャンバスに立ち向かいました。作品の構想は長野でかんがえてあったので、それをキャンバスの上に実現させることでした。
時間の観念が消え、兎にも角にも作品の完成に向かい、ひたむきに描きまくりました。夜も昼もありませんでした。
空腹を感じたときは鰹節をかじり、水を飲んですぐまた作品に向かうことの繰り返しでした。
段々と構想が姿をカンバスの上に現してきました。
ますます興奮してしまいます。そうしてその全貌が略完成するまでに1 週間が経ちました。

そうして出来上がったのが、通勢展図録の第86,87 頁に掲載されてあります、作品第V―T番の"キリスト誕生礼拝の図"(作品集−2 参照)でした。兎にも角にも父・通勢はこの絵を完成させました。展覧会の作品搬入日前の1 週間は徹夜で、1 週間ろくなものも食べなかったと聞いています。
父・次郎も、何日も何の連絡もないので心配になり、増治郎の妻・妙子の弟・俊彦にこっそり手紙を書き、
息子はどうしているか知らして欲しいと尋ねたらしいです。すると俊彦から手紙が来ました。
それには、"余りの忙しさに連日徹夜、その上何も食べる暇もないので、腹が減って我慢が出来なくなると、
鰹節を齧って水を飲んで過した"と書いてありましたとか。
次郎も次郎で、通勢が生きていると分かると安心したらしく、それでも生活費は送らなかったようです。
ともかく、通勢22 歳・1917 年の8 月、自己の総力を結集して完成させ、二科展の応募に間に合わせたのでした。
あとは厳正な審査結果を待つばかりでした。 ところが、待ちに待った審査の結果は、なんと落選でした。
余りの事に愕然としてしまいました。
それにしても、前回も前々回も応募した作品は、とくに力を込めたものでもないのに入選しているのに。
どうして? でも厳正な審査結果ですから、厳粛に従わざるを得ませんでした。

この結果は、ただちに岸田劉生に報告されました。この絵を見た岸田劉生は、「なかなか良く描けているではないか。
これだけのものはなかなか描けるものではないよ。」と言って残念がってくださった、との逸話が残っております。
何故入選できなかったのでしょうか。この絵をよく見ますと、確かに発想の奇抜さは良い点でもあるし、悪い点でもあるかもしれません。
群集はもとより、マリアもみな裸であること、また幼子イエスを抱いているのは、父のヨセフであること。
熱狂する群集たちの熱狂振りは良く描けている。一番手前に大きな体を横たえている男、その男の表情には群集のそれとは異なった、
やや冷やかな顔。その男に、この歓びが分からないの
かと詰め寄る女性。この男の存在を説明する聖書の直接的な箇所が見当たらないこと。
これ等のどれかに落選の原因があったかもしれません。
父は私が小さかった頃、私にレンブラントやルーベンスなどの画集の中の絵で群集が描かれたところを見せて、
その群集の中の一人を示して、この人はこの絵を描いた画家自身を描いているんだよ、と教えてくれて、驚いたことを思い出すのです。
この絵を見て、今になって思えば、思い当たる人物が隠されています。この絵の左側の群集の中でひときわはっきりと両腕を高く掲げ、
立ち腰になって、熱狂的に歓びを現している若い一人の女性と、この女性と対照的に右側の群集の中で、
ひときわ両手を高く挙げて歓びを現している男性、この女性と男性こそ、
愛し合って結婚まで約束してしまった二人・ 好子と通勢に見えないでしょうか。
通勢は、長野を出る前に自分の胸中を打ち明け、二人を良く知っている義兄・増治郎に、長野にいる母マスを通じて手紙を出し、
義兄の意向を求めていたのでした。

図録の"河野通勢日記"に、1917 年9 月29 日付けの通勢の日記があります。そこには、恐るべきことが書かれてあります。
「ちょうど25 日の夜かと思う。一寸母から柳田春子の死んだと言うことを聞かされた。
罪は勿論自分にあった。彼女はよし、どんなに彼女自身罪に汚れて居ようと、自分には聖者のように見えた。
そして本当に聖者であったのだ。彼女なるが故にかなり神聖な努力をした。彼女に捧げた絵は4 枚ばかり数え上げることが出来る。
皆、揃いもそろっていいものだと言う気がする。
中には彼女の手が描かせた様なものもある。即興画としても最も完成したものだ。………今自分は妻を入れた。
自分は妻を一番愛さなければならない。………春子−お前の俺の内に生きただけは生きた永久のお前であり、
お前あったればこそ生かしえた永久のうちに流れる俺の血だ。お前−がなければ俺の若年の光の大部分は消え失せてしまう。
追憶してお前のことに及ぶと、自分はあらゆる貴きにも代え
られない貴さを感ずる。涙さえ出てくる。若がえる。努力を強いられる。使命を感ずる。
何かお前に返礼したくなる。……」以上が先に母から増治郎宛に出した手紙に対する先方からの返事が来た時に書かれた日記の一部であります。

ここに、好子とのあの華麗な恋は、無残にも破綻してしまったことを知らされたのであります。
増治郎からの手紙を見て書いた日記には"柳田春子は死んだ"と書かれてありますが、勿論、柳田春子は母と息子との間の暗号でした。
この日記には更に、続いて次の事がしたためられています。「文展に入選した。嬉しく思った。しかし普通だと思った。
自分の気を汲んでくれたのが有難いと思った。価値から言えば勿論の事だと思う・・・・」
この時の第11 回文展に、特選候補として入選したときの歓びが書き残されています。
この作品は、図録−p182 に示してある"自画像"(自画像(USA) 参照)であります。
この絵は現在、米国ワシントン ア−サ−・M・サックラー美術館に収納されています。
ところで増治郎が二人の結婚に賛成できない理由は、姉をさておいて妹と結婚することは、
当時の家族制度を重視するわが国では認められないといった理由のようでありました。
この手紙の陰にはどのようなことがあったのでしょうか。

想像しますのには、話を聞いた増治郎は、ただちに義理の母・野村ハマにこの話を持ちかけたに違いありません。
義母ハマはとても優しい賢い人でしたから、私が何とかしましょうと、話を夫・定吉に持ちかけたに違いありません。
姉の光子とであれば異存はないと相談がまとまり、義母から増治郎への指示は、通勢の話は良く分かりました、
でも姉・光子の結婚がまだなので姉の光子を考えてはもらえないか、といった内容の返事を出すようにとのことであったに相違ないと思われます。
ですので上記の日記で、通勢は断られた手紙の中で"今、自分は妻をいれた。自分は妻を一番愛さなければならない。"
と言った妙な記載が混在し たのではないでしょうか。
増治郎からの返事は次郎夫妻も検討し、その結果、姉・光子との結婚をお受けしてはどうであろうかと、通勢の納得を促す事にしたと想像されます。
そして殆どこの時に、通勢と光子との結婚は決まってしまった様です。
でも、増治郎からの返事は、通勢には受け入れられるものではありませんでした。
あまりのことに、身の置き場もなかったのではないかと思われます。
通勢は思い悩み苦しみ、戸隠山が呼んでいる、二人で山に登り、いっそのこと−とまで思いつめたかもしれません。
通勢の両親は悩む通勢を説得したに違いありません。
通勢は、妹の好子と姉の光子とのあいだに起こったこの悲劇の現実を、レアリズムの画家として描き残さねばならない、
との使命感を覚え、まだ納得できない自分を説得させながら描いた、余りにも厳しい絵があります。
"貧しき母子"(作品集−1 参照)と題された絵です。傍らの好子にも気づかず、児を背負い、
これからの道を歩もうとする通勢の妻となった光子と、厳しい辛さをじっと我慢して、
想像妊娠して死んで生まれてきた児を優しく抱きかかえる好子と、好子の手から死んでしまった児を取って
緑の布に包んで天に携え上がろうとしている天使の姿が描かれています。
通勢はこの絵を誰にも見せませんでした。大きなキャビネットの裏に隠されていました。
死後だいぶたって、父のものを片付けている時に出てきました。
2008 年12 月18 日記