河野通勢ギャラリー − 河野通勢(こうのみちせい)− 大正から昭和戦前期の画家

父・通勢の出生について

1996 年10 月14 日付けの私から兄・俊達へ送った手紙の写しが私の手許にあります。
これには私の祖母(次郎の妻マス)が通勢の出生について、私が15 歳の頃、私に話してくれた時の事について書いてあります。
「大切な事だからよく言っておきますよ。」と言われ、何のことでしょうかと尋ねますと、お父様の事ですけど、と申されました。
私には子どもが出来ないので、"ふく"さんという方がおられ、その方に、お父様を産んで頂いたのです、と言われました。
その方はお父様を大変永い事気遣って下さいました。家に古い衣桁があるでしょう、あの衣桁は"ふく"さんが下さったものです、と言われました。

祖母は私に、父の通勢の出生について、このようにはっきりお話されました。私は余りに大切な話ですので、食い入るように祖母の顔を見ました。
でも語られる祖母の顔は落ち着いた平安なお顔でした。
この事は、恒人にはっきり言って置かなければならない、と思っておられた決意のようなものを確かに感じました。
また、その落ち着いた御様子は、確かに語り伝えた、と言う安堵さからではないでしょうか。

父の出生は,決して不注意な考えから為されたものではなく、祖父母の全くの合意の下に生まれてきた子であることを初めて知りました。
祖母は事実を隠すようなことをされる方ではありませんので、事実をそのまま私に語って下さいました。
この時祖母は、「子どもが生まれてこなくて困っている方に代わって、お子を産んで下さるような方は当時は居られたのですよ。」と、
一言付け加えられたと記憶しています。
私は、今回の通勢展のため学芸員の方々が、通勢が生まれ、育ってきた真実の経過を、
あらゆる手立てを尽くして調べ上げてくださった事に本当に感謝しております。
ここで、キリストを信じる者と致しまして、一言申し添えます。旧約聖書の創世記12章から21 章に亘って、
イスラエル民族発祥の歴史が書かれております。その民族の初めの父はアブラハムという人でした。
アブラハムは始めアブラムと呼ばれておりました。
BC2000 年ごろの人で、今のイラクになりますが、ペルシャ湾に望むあたりにあった、当時の文明に栄えたウルという街に住んでおりました。
神はアブラムに、「あなたはそこを出て、私が示す地カナンに行きなさい、とのお声を聞いたのでした。
アブラムはお言葉に従って、妻サライと甥のロトを連れて、カナンの地へ旅立ったのでした。
その時アブラムは75 歳であった、と書かれております。
カナンの地では、ロトと家畜を育て大層富を得ました。その結果問題が起こらないように二人で相談して、
南はロトが、北はアブラムが所有する事となりました。アブラムは生活も豊かになりました。
しかし一向に子どもが生まれてくる気配がありませんでした。
そうしている内に10 年も経ってしまいました。アブラム夫妻は歳をとってきますのに、まだ神様はお子を下さりませんでした。
妻のサライは気が焦るばかりでした。サライは夫アブラムに、家にいるエジプト人の若いメイドのハガルに産んでもらったら、と持ちかけました。
二人は相談の結果そうする事としました。そうしましたらハガルはすぐに妊娠しました。
そうして生まれてきた子にアブラムはイシュマエルという名を与えました。
その時アブラムは86 歳だったと書かれております。イシュマエルは元気に育ちました。
そうしている内に、アブラムは99 歳になってしまいました。この時神様はアブラムをお呼びになりました。
アブラムはこの時、どうかイシュマエルが私達の世継ぎとなりますようにと申し上げましたところ、
神様は、あなたの妻はあなたに男の子を産むでしょうと、申されました。
そして、生まれた子の名をイサクと名付けなさい、と言われたのでした。
また、あなたの名はアブラハム、妻の名はサラと呼びなさい、とも言われたのでした。
そうして、翌年妻サラに男の子が与えられました。
アブラハムはその子の名をイサクと名付けました。この時アブラハムは100 歳でした。
そうしてイスラエルの子孫はこのイサクから、神の祝福を受けて選ばれた神の民として繁栄したのでした。
祖父・次郎はキリストを信じる信仰を持ったときから、聖書のこのお話を聞いていたに違いありません。

私は、ハリストス正教会が何時長野に建てられたかを調べました。
通勢の図録の中のp181 に示される"河野次郎年譜"に「1888 年(明治21 年)長野市にハリストス正教会・長野復活会堂が建設された。」
との記載を発見したのでした。ここの記載によりますと、「次郎はこの時既にキリストを信じていた」ことが書かれております。
そして洗礼名はアレクセイであったと書かれております。
また、この時、「次郎は長野支部の教会建設に際しては寄進に尽力した」ことが書かれてあります。
翻って、祖母の話と符合してみますと、次郎と妻マスとは教会員として迎え入れられ、会員としての愛の交わりに加えられ、
なんでもお話できるようなお付き合いが出来るようになった頃、子どもが与えられたいという切なる願いを、
教会の司祭様に相談したに違いありません。
この時次郎の心の中に、「永い事、子を持てなかったアブラムと妻サライが代理母出産までして世継ぎを設けるつもりだったのに、
神様は血のつながった約束の子を待つ様、アブラムに御意を示されたのでした。」このお言葉が去来したに違いありません。
司祭様は次郎夫妻のこの切なる祈りというか願いに答えて、代理出産してくださる方をたぶん教会の信徒の中から探してくださったに違いない、
と私は思います。次郎の年表を見てみますと、
明治21 年教会が出来た時から通勢が生まれた1895 年(明治28 年 )6 月までには7 年経っております。
この間に教会の御了解の下、次郎と妻マスは選ばれた最善の道を選んだに違いありません。
この様にして通勢は両親の祈りの下、神様の祝福をいただいて生まれて来たに間違いないと信じております。

祖母が私を呼んで、父・通勢の出生について、話されたときのあの異様なまでの理路整然とした御説明、語られる祖母の落ち着いた、
平安な御様子は、上記致しましたような、周囲の皆様の祈りとご協力の真実に支えられたものに違いありません。
従いまして、河野通勢の出生地はまぎれもなく長野県長野市ということになります。
父が死去いたしましてから何回か遺作展が催されました。しかし、残念なことに、それらの遺作展の図録に示された父の出生の記述には、
長男・故通明が1982 年(昭和57年)不忍画廊にて催された"青春河野通勢展"の図録の中の父についての解説のなかで、
「当時家に居た女中に手をつけた。・・・・」といった記述が見られるのです。
どのような事実に基づいてこの様なことを書いたのか全く理解に苦しみます。
当時祖父・次郎の家に女中が居た事など誰も聞いた事がありません。
長男・通明は我々兄弟に一言の相談もなく、どこかの噂ばなしを本気にして作文した、としか思えません。
私は1964 年(昭和39 年)に東京から大阪の企業に就職しております事もあって、この様な文章を書くに際して相談してくれませんでした。
また次男・俊達は私より先に渡米して日本に居りませんでしたので相談もされていませんでした。
困ったことに、以後通勢の出生については、長男のこの説が父の遺作展のたびに、その図録に引用されていて本当に困っております。
平成20 年11 月20 日 記