河野通勢ギャラリー − 河野通勢(こうのみちせい)− 大正から昭和戦前期の画家

通勢の父・河野次郎のこと

河野通勢の父・次郎は足利・戸田藩士・杉本奥太郎安志の3 男として、1856 年(安政3 年)江戸神田小川町の戸田藩神田上屋敷に生まれました。
幕末から明治初期の南画家・田崎早雲の生まれた所でもありました。この早雲と次郎の父とは藩で同役であったので共に親しい間柄でした。
早雲の一人息子・格太郎は、早雲の一番貧乏な時代に育ったので、人間的に立派な青年でした。
そしてその頃には既に将軍家の菩提寺・寛永寺漢学塾 の塾頭にまでなっていました。次郎は、格太郎を兄事していました。

一方、早雲の方は、独立して江戸で有名な南画家となっていましたが、どうした事かそれを捨て、藩のある足利に帰ってしまいました。
藩から早速、家老補佐という役を仰せつかりましたが、これは早雲の、時代を見る眼が優れていたことが認められていたからであったと思われます。

直ぐ藩政を勤皇の方向に変え、財政倹約のためと称して江戸の藩邸の武士たちを皆集めました。
次郎もこれに従って足利に帰ることとなったのでし た。早雲の一人息子の格太郎も勿論一緒でした。
早雲はこれで足利という小藩を、この激動の時代から救えると思ったし、彼の家も守れると思ったのでしょう。
だが、帰藩したばかりの格太郎(藩の学校の教師の職が約束されていた。)は脱藩して、風雲急を告げる江戸に行ってしまいました。

そして彰義隊に加わり、一緒に上野の山に立てこもり、官軍と戦いました。しかし玉砕、格太郎は浅草の自宅に辿りつき、
新妻と共に自殺してしまったのでした。次郎はこの知らせを聞いて、大きな衝撃を受けました。
徳川家は崩壊すると解っていながら敢えてそうした行動をとった格太郎夫妻に、深い同情を寄せたのでした。
この無念の思いは又、次郎の一生を貫き、彼の心の中を大きく占めるものとなってしまいました。

足利に帰った次郎は、かの有名な足利学校に入学して勉学に励む傍ら、又、早雲につき南画を学びましたが、
どうも昔のような情熱が沸きませんでした。格太郎に対する想いが、そうさせたと思われます。
小藩を何とか救おうとした早雲たちの努力も、徳川三百年の恩を知らざる者としか見ることのできない
少年次郎には、何か別のものが欲しかったようです。

1871 年(明治4 年)廃藩置県が発令され、藩より1 家に10 両という資金が渡されました。
次郎の父もこれを元手に、みよう見まねで商売をしてみましたが、すぐに行きづまってしまいました。
1876 年(明治9 年)20 歳になったばかりの次郎は、彼が一家を支えなくてはならなくなってしまいました。
次郎は同年・5 月には、松本藩河野家の河野権平の養子となりました。

次郎は、また、そのころ新しく外国から日本に入ってきた西洋画を学びたいと、かねてから調べていましたが、
江戸の高橋由一の洋画塾・天絵楼(てんかいろう)を訪ねることにしました。次郎は教員生活の傍ら、たびたび上京し、
高橋由一に洋画を学びました。由一は次郎の才能を認め、入門者と同じように総てのことを教えてくれたのでした。
その頃、次郎の困窮を察した高橋由一は、次郎に由一の友人で、後に明治教育界の大御所となった伊澤修二を紹介しました。

そして当時、伊澤修二が愛知県師範学校の校長に抜擢されたのを機に、次郎は江戸を去って名古屋に移る決意をしたのでした。
1876 年(明治9 年)、伊澤の推薦を受けて愛知県第一師範学校及び愛知県第一中学校の美学担当学教師となることが出来たのでした。
次郎は新しく日本に普及され始めた西洋画を生徒に教えることに生き甲斐をおぼえ、熱心に努力し、
石版画挿図入り愛知県洋画教科書(三巻)を制作出版することが出来ました。
向学心にとむ次郎は、この頃すでにエッチング銅版画・リトグラフ石版画の技術を修得し、これ等の新しい技術を駆使して、
絵画技術修得のための分かり易い教材などの作成に努めました。

また、名古屋において、若い子弟を育てるために洋画画塾も開きました。
ところで、伊澤修二は愛知県師範学校の校長から、伊澤の郷里(伊那)に近い松本の師範学校の校長に転勤となりました。
次郎も伊澤に従って、1882 年(明治15 年)松本の師範学校に赴任することとなりました。
ところが、この事は、財力も旅の知識もなく、鉄道もまだなかった頃の事ですから、次郎にとっては大変なことでした。
その上更に大変な責任が課せられました。名古屋で婚約した若い女性も、危険な長旅に連れて行かねばならなくなったからでした。
ただ頼みの綱は、藩籍にあった時、鍛え上げられた腕と、一本の伝家の宝刀だけでした。
それにしても、明治9年に発令された廃刀令によって、大っぴらでは差せなくなったばかりのころでした。
また、関所に変わる交番で呼び止められたことでありましょう。その時は、松本師範への転勤命令状のお墨付きが役立ったに違いありません。

私が幼かった頃、祖母(マス)がこの時の名古屋から松本への旅のことを話してくれたことがありました。
それは、それは大変だったと私に話してくれましたが、その時の大変さが私の耳の奥底に今もかすかに残っています。
それにしても、彼等の名古屋から松本までの山又山を越えての旅は、幾日かかったことでしょうか。
一週間か10 日位はかかったのではなかったかと思います。

とにかく次郎も松本に住むことになり、松本の師範学校に赴任することとなりました。
そして、1883 年(明治16 年)10 月8 日、次郎は(多分、伊澤修二先生の御媒酌を頂いて)、
名古屋から松本まで一緒に来た古橋マスと結婚したのでありました。その時、次郎は27 歳、嫁マスは17 歳でした。

ところで、次郎の父・杉本奥太郎(戸籍上の名前は奥太郎安志)は、幕府の崩壊と明治新政府発足の激動の乱世を生き抜き、
1883 年(明治16 年)9月次郎が松本に赴任した翌年、家族の行く末を案じながら足利の地で没したのでした。
郵便も電報もないこの時代、この事を知るすべはありませんでした。奥太郎の妻タキ(多希)は1828 年(文政10 年)生まれですから、
この時55 歳でした。一人身となった次郎の母タキは、伊勢崎 の伊勢崎銘仙の素封家飯塚家の養子となって
伊勢崎に住む4 男の飯塚悦蔵の世話になったことは、あとで知らされたことでした。
次郎は名古屋での経験を生かし、松本の師範学校の生徒たちに西洋画技術をおしえるため、更に改良を加えて、
挿図入りの教科書を制作したり、それとともに、模範的な風景画や人物画を自ら描いて、生徒に絵の美しさを示したにちがいありません。

次郎は西洋画の簡単な解説書も作りたいと、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの画家の名前、作品の名前まで読めるように、
語学も独学で学ばなければなりませんでした。そうして分かったことは何でも、生徒に教えていったことでしょう。
次郎にとって本当に遣り甲斐のある仕事でした。
次郎は教師の地位を活用し、当時日本に押し寄せてきた西洋の学問・数学、科学、図学、リトグラフ、エッチング、写真、
更に、南画や浮世絵画までも修業し、あらゆる技術や学問に挑戦し精通していきました。

このとき、政府からの指令が出て"1県には1 つの師範学校"との通達がありました。
そのため、伊澤修二は突然、松本の師範学校長から長野の師範学校長に任命され、直ちに長野に移ることとなりました。
ところが、伊澤修二は長野に転勤となって程なく、政府命令により、ただちに米国に渡り、
ハーバード大学での教育学、理化学の修学が命じられたのでした。

次郎も、1886 年(明治19 年)松本から長野へ移住することとなり、そこでも長野師範学校の絵画教師として勤務したのでした。
次郎は長野に来てその年の夏、"新しい絵画教育について"という講習会を県の要請によって開きました。
この講習会は、県下及び周辺各地の学校での学習指導の基本となったと聞いております。
この時の受講者の中に、後に有名な画家になった中村不折、結城素明といった人達が参加していました。
次郎は不折を家に引き取り、その後、不折を高橋由一門下の先輩・小山正太郎に紹介し、上京させました。

次郎は上述のごとく、明治7 年上京し高橋由一から洋画の手ほどきを受けていた関係から、
その当時からルネッサンスの泰西名画に接する機会があり、また、多くのキリスト教関係の絵に接する機会がありました。
このためキリスト教の教えを説く聖書に深い関心を持ったことは容易に想像できます。
丁度その頃、1888 年(明治21 年)、ハリストス正教会の復活会堂がなんと次郎の家のすぐ近く、
県町(あがたまち)11 番地に建設さ れたのでした。この事は、次郎にとって本当に幸いなことでした。
そして、次郎はいち早くこの教会の信者となり、友人知人多くの人をキリスト教の信仰に導いたのでした。
妻マスにも入信を勧めました所、真剣に受けとめてくれ、入信してくれました。

ここで、次郎にとって本当に、気がかりなことがありました。それは上記した、次郎の父・杉本奥太郎が死亡した時から、
伊勢崎に住む弟・飯塚悦蔵のところに世話になっている、母タキのことでした。
次郎は、今は、長野に住むこととなって、群馬県にも近くなったことであるし、飯塚家も子供が次々生まれ、
大変な時でしたし、今度は自分が母の面倒を見ようと、一大決心をしたのでした。
この事を妻マスに打ち明けましたところ、妻も、「お母さんが理解してくだされば、それがいいではないですか。」 と賛成してくれました。
後は母がこの事を承知してくれれば、次郎と妻マスと母タキの3 人で一緒に生活できる見通しが立ったのでした。
次郎は居ても立っても居られなくなり、群馬県伊勢崎の悦蔵にこの事を相談しましたところ、承知してもらえました。
次郎は学校の夏の長期休暇を利用して、伊勢崎に向かったのでした。

そのころ、碓氷トンネルはまだ開通しておりませんでしたので、鉄道で出来る限り碓氷峠に近づき、
後は馬車か、なにかで碓氷峠を越えていった事でしょう。そうして終に念願がかない、伊勢崎に母を訪ねることが出来たのでした。
次郎は江戸から名古屋へ立った時から、一度も母と会っていなかったので、二人の再会はどれ程うれしかったことでしょう。
次郎は母を伴って信州長野へと帰っていきました。
次郎は帰りの旅の途中、沢山の話を母に話したことでしょう。
名古屋で師範学校の教師となったことから始まって、次から次へと話をして、伊勢崎から長野までの長旅もあっという間のことのように思えました。
母は久しぶりの次郎の話を、本当に喜んでくれました。そうして、1889 年の復活祭の日に洗礼式が持たれました、
主イエス・キリストと神父様と教会員全員の前で、全てを神にお任せして 河野次郎、河野マス、杉本タキの3 人はそれぞれ、
アレキセイ・次郎、エリザベタ・マス、ルキヤ・タキの洗礼名を頂いて洗礼を受けさせていただいたのでした。
そして、全員神様からの御祝福をいただき、また、教会員の皆様にも祝福されて教会員に受け入れられたのでした。

それからは、3人そろっての、教会の礼拝出席を続けていきました。また、次郎は可能な限り財政的援助を惜しみませんでした。
又会堂の建設の折には、寄進に尽力したとの記載が「正教新報」にも残されております。
母ルキヤ・タキはそれから2 年後、次郎のところで天に召されていきました。

ところで、次郎は、それまで勉強してきた写真技術をさらに最新の資料などを研究し、より完全なものとして行きました。
最新の写真技術を駆使して、恥ずかしくない写真が撮れるまでになってきました。
こうして自宅を写真が撮れるように改修し、写真だけでなく、油絵の風景画、肖像画、水彩画、何でもござれで注文に応じます、
といった体制が出来上がりました。
仕事がいよいよ忙しくなって、どうにもなりません。師範学校の教師を辞める決断をしたのでした。
1895 年(明治28 年)長野県師範学校を退職しました。そして自宅の写真場を"無声閣"と名付け、それを本業としてスタートしました。
次郎には一つの悩みがありました。それは、どうしても子供が与えられないという悩みでした。
この事を妻マスに相談し、教会の司祭様にも打ち明けました。司祭様は、養子の児を貰い受けるとか、
代理母の人に産んで頂くとか、教えてくださいました。
次郎はどうしても自分の子が欲しかったので、司祭様にはっきりと自分の希望を申し上げ、後は全てお任せしました。
司祭様は教会員の中から一人の代理母をしてくださる人を紹介してくださいました。そうして無事可愛い男の子が与えられたのでした。
この神様の御祝福につきましては、本稿の第3 巻に詳しく述べられております。

こうして本当に神様のお恵みの内に、赤ちゃんが授かりました。1895 年6 月10 日、通勢が誕生したのでした。
通勢の命名はどうでしょうかと、検討の末、ロシヤ人の神父様には"ツウセイ"の発音がいいにくいとの御意見で、
"ミチセイ"となったという記載もありました。

さて、通勢は代理母のお乳で育てられ、乳離れする頃、子供の多かった弟の飯塚悦蔵夫妻の好意で、
しばらくの間、母マスは乳飲み子・通勢とともに、飯塚家に滞在させて頂き、乳飲み子の育て方について、飯塚家で教えていただいたのでした。
子育てに自信ができた母は、元気に育った通勢をつれて長野に帰って来ました。父・次郎はその帰りをどれ程待ちわびた事でしょう。
幼な児・通勢を抱き上げる次郎の笑顔が見えるようです。でも、どうしても見てほしかった母タキは4 年ほど前に、
次郎の家で天に召されていましたから、かわいい孫の通勢を見ることは出来ませんでした。
次郎は師範学校での経験から、子供の教育については強い関心と、抜群の経験を備えていたと考えられます。
通勢は生まれた時から教育者・信仰者次郎の影響を強く受けて育っていったに違いありません。
1902 年(明治35 年)4 月、通勢は長野県師範附属小学校に入学しました。
両親の深い愛情ときめの細かい躾と教えのもと、元気に育てられたに違いありません。
次郎は、通勢が9歳になったとき、洗礼を受けさせたのでした。
洗礼名は、ペートル・アレキセヴィチ・ミチセイ・コーノでした。
通勢はそれまでもいつも父母と一緒に教会へは行っておりましたが、洗礼を受けた後は、彼の信仰はさらに確かなものへと導かれていきました。

次郎は師範学校で教師をする傍ら、自宅でも塾を開き、子供達に絵を教えていたようです。
その学び舎で、後に有名になった童謡作曲家・草川信、後に女子美術学校を卒業し文学者・長與善郎と結婚した市川成子、
後にホテル犀北館を築いた近山與一郎と言った良家の子弟達が、次郎から絵を教わったのでした。
この様な環境の中で同じ年頃の通勢も、その影響を強く受けて育っていったと考えられます。

草川信は、県立長野師範学校附属小学校の在学中、卒業式を前にしての学芸会の際、絵画展覧会を催すことを思い立ち、
正式に学校の許可を得て、クラスの小画家たちを誘い合わせて展覧会を実現したのでした。
信と二つ下の通勢の二人で会場の準備をしたのですが、次郎の助力もあったようです。
通勢より二つ年下の近山與一郎氏のその頃の懐かしい思い出話が、息子の近山與士郎氏の随筆のなかに記されています。
「通勢はこの時すでに抜群な力量を備えていた。信もまた水彩画では並々ならぬ力を持っていた。
また、このような環境のもとで親しくなった子供達は、夏休みともなると、裾花川の広い河原で、写生をしたり、
水泳をしたりしていたし、また、後町小学校のグラウンドでは毎日のように少年野球をしたりしていた。」と。
通勢の幼い日の面影を、しのぶことが出来ます。
2009 年1 月10 日記